ネットワーク事業(始まりの頃)

1976年、Palo AltoのXerox研究所でイーサネットが開発された。 発明者Bob Metcalfe(メトカフェ)を中心にPC (パソコン)ネットの会社、3Comという会社が誕生した(1979年)。 この3Comの社長として、HP(ヒューレットパッカード)から、人望あるBill Clausが就任した。 一方、Intelでマイクロプロセッサの設計部門にいたRalf UngermannがZilogという会社を設立した後、 その仲間Charlie Bassを誘ってUngermann-Bass(U-B)というネット会社を創業した。 これら3ComとU-B、2社はネットワーク時代の到来を予見していたが、着目点が違ったようだ。 前者はPC (パソコン)を繋いでネットワークにすること、そのOSを作ること、 後者は、ネットとネットをどう接続するか、であった。

カリフォルニアに出張中、1984年、小さな展示会で、ソリトンは、U-B系に似た、もう一つの会社; ホストコンピュータとその端末を結ぶネット製品を手がけるBridge Communicationsという会社に出会った。 この会社は、イスラエル出身のJudy Estrin(CALIF大Berkeley校の教授の娘)とその夫、 Bill Carrico夫妻がU-Bと同じくZilogを退社して創った会社であった(Judyのその後の活躍は広く知られているが、 1998~2000年CiscoのCTOも務めた)。 ソリトンは、このBridge Commと業務提携してLAN(Local Area Network)製品の販売を開始した。 当時はイーサネットの普及も未だの段階で、問い合わせはすべて海外企業の日本法人からだけ、 しかも、Bridge Commの商品のように、異なるベンダーの異機種間(ホストと端末)接続を中間プロトコルに変換して実現する類の商品が主であった。 ネットワークは我慢を求められるビジネスであった。 立ち上がりが遅い。これはアメリカでも例外ではなかったようだ。 1987年、Bridge社と3Com社が突然合併し、新生3Comとなった。 そこで、社長のBill Claus、見るからに頭の良さそうなBob Metcalfeに初めて会った。 製品開発の進め方が積極的になった。1989年に日本語版ネットワークOSの開発のために、 ソリトンは、この新生3Com社と合弁会社を設立した。 アメリカではネット端末として、IBMのPC(パソコン)で殆どのユーザーをカバーできた。 日本国内のPCは、PC/AT互換機が隆盛になる前の状態で、 日本IBM(PS/55)、NEC(PC9800)、富士通(FMR)、沖電機(if800)、東芝(J-3100)と各社がバラバラ、 仕様が違った(東芝のみIBM PC互換)。

ソリトンの社員2人が国内各社のデスクトップPCを段ボール8個に詰めてアメリカに向かった。 海外出張は初めてだったという。ネットワーク基板、そのNDIS ドライバー、LAN OS(日本語版)を開発するためであった。 成田空港で手荷物の個数オーバーと重量オーバーで追加料金を払うことに。 一人の持ち金は離陸前にゼロになった。サンフランシスコ税関では書類不備で段ボール8個のPC群が差し押えされた。 その後、輸出手続きをアレコレ教えられて、高い関税を払わされたのだった。 社員のもう一人が、当時、珍しくクレジットカードを持っていたことが幸いだった。 2人は、シリコンバレーの3Com社の技術者と共にシアトルのマイクロソフト(Redmond)にも飛び、 ドライバーソフトの作り方などを確認して帰国したのだった。―――

ソリトンは1986年より毎年、晴海などでの展示会に大きなブースを出展、積極的にNetwork入門セミナーを開催した。 しかし、ネット商品はなかなか売れない。水の中に魚を捕る釣り糸は、投げ込み、引き上げは楽である、 しかし、釣り糸をネット状の網に変えると、投げ込み、網の引き上げは大変な労力になる。 ネットワークとは、ネット化されるのに時間がかかり、ある程度ネット化が進み、Coverageが拡大すると、 そのネットに加わらないと業務にならない、というインフラの特徴、慣性を持つ。

合弁設立の翌年、1990年に日本初のLAN OS(LAN Manager日本語版)を開発、発売できた。 このネットワークOSはもともと世界視野でマイクロソフトとIBMが共同歩調をとってリード役を担ったものである。 しかし、間もなく二社はOS戦略で対立し、それぞれが独自路線を進むこととなった。 これはソリトンにとって、ネットの慣性(inertia)に、更に加わった悪条件となった。 同じタイミングでUtah州生まれのネットワークOS: NetWareが我々の競合として出現、彼らが一挙にシェアを拡大した。 今も続く、講演会と展示会を合わせ持つイベント、「Interop」はNetWorld + InteropとしてNetwareのイベントとして始まったものである。 はからずもソリトンは劣勢側に立つ身となり、ネットワークOSのビジネスプランが狂い、苦戦した。 当社にとってネットワークビジネスが花開いたのは下記の、1991年のNTTの大規模システムの構築開始、 そして日本語版TCP/IPソフトの販売開始からである。

2年遡って1989年に、NTTは企業内ネットワークのビジネスに進出するため、 「同軸中速構内通信システム」という称呼で、いわゆる「イーサネット デバイスを求む」、と国際調達した。 ソリトンは、その大部分を落札した。 そして、1991年以降、NTTの大規模システム; プロジェクト名;アイリス(IRIS)やプロジェクト名;カスタム(Custom)向け にネットワーク製品を大量納入、92年にISDNルータをも自社開発して納入することが出来て、 いよいよチャレンジできるビジネスとなった。 さらに、1991年に自社開発したソリトン日本語TCPが、日本IBM経由で国内大手顧客に紹介され(注3)、 広く普及、業界標準の商品となった。当時、このTCPは国内シェアの4割以上を獲得したと言われる。

(注3)当時、日本IBMに在籍されておられた松島克守氏による即決に負うところ大である。 松島氏はIBMでCAD、CAMなど、後にPCやOS/2のマーケティングを担当されており、 ある日、一人で当社を訪問、ソリトンのTCPを決定されたようだ。 東大工学部精密機械工学科卒、ドイツ留学を経て、1982年に日本IBMに入社。1999年に東大教授に就任、 俯瞰工学、知の構造化などを提言、大学の研究科の再編と目指すべき方向の実現に尽力された。 彼のフランクな人柄と的を得た多くの直言に接し、当社の社員には、 松島先生ファンが多い。先生は2021/11/29に癌で亡くなられた。

インターネットの誕生

ソリトンをはじめ、世界のネット業界のFocusはネットワークだが、それは「企業内のネットワーク、Local Area Network」であった。システムの部分部分が、局所的にネット化され、知的作業が効率化するというものだった。
一方、アカデミック、研究者たちの世界では、とんでもない(儲け話とは殆ど関係ない)実験をする人々がいた。曰く、世界中のコンピューターを繋ぐという「インターネット」である。文献によれば、この活動は、遠隔地の大学のコンピュータセンターをつないでみて、メッセージが伝わるかを実験した1969年のアメリカのARPANETに始まるという。確かに、イーサネットの出現、TCP/IPプロトコルの標準化、DNS(Domain Name System)の発想など、技術背景がよくマッチしたタイミングでの試みだったと言える。国内でも、1984年に、東工大、東大、慶應大などのコンピュータセンターを繋ぐネットワークが構築されたという(JUNET--- Japanese University/Unix Network)。1986年から89年にかけてネットをアメリカにも接続、1988年には、日本で産学合同のWideネットワークが開始された。今あるインターネット時代を実現させる大学の助手たちと若い研究者たちの熱意、ボランティア精神。当時の規制にとらわれずチャレンジを支援した教授(東大、大型計算機センターの石田晴久先生など)たち。感動にあふれた活動が、大学と一部の民間コンピュータ会社の技術者を中心に進んでいたのである。

JUNETを実現させ、Wide Projectを推進していた慶應大の村井 純氏がソリトンを訪ねて来た。「サーバーを紀伊國屋に?置いて、アメリカとの接続はKDDから無償で提供してもらい、--------------大学が、金が無い事は、ソリトンさん、よくご存知でしょう? ぜひ寄付金を--」と。1987年であったか。

この人、変な人だなと思った。KDDでアメリカに国際電話をかけるのに、秒単位でチャージされる高価な通話料。話す言葉を頭の中で確かめて、深呼吸をしてから、ダイヤルをまわしたものだ。業界では、国際電話をかけるのに予算申請が必要、という時代である。それを無料で借りた?

寄付金?金額はいくら程を?と聞くと、村井氏、握り拳一つを出した。
500万円の寄付となった(と記憶している)。

この村井氏、その後、2か月ごとに、その後の進捗をPower Point風の絵を描いて説明に来るのだ。「この人、その辺の学園祭の募金で来る学生と違う。常識を知っている、まともな社会人なのだ」と感心した。ソリトンは、彼の話を十分合点するに至らず「フン、フン」と説明を聞いたのだった。

ソリトンは、このインターネットの立ち上がりにおいて表に出て活躍はしていない。ソリトンは1989~1991年、NTT向けのビジネスに忙殺されていた。ネットワークのセミナーを開催すると、出席者300人の98%はNTT社員という時である。NTT向けの売り上げが45億円を記録した時期でもあった。

その後のネットワーク事業

(1)SNMP

TCP/IPのネット環境でルーター、スイッチ、サーバーなどをネット経由で監視、管理するプロトコル、SNMP. これを実装することがお客から要求されていた。 当社の技術者が1992年ワシントンに出張したり、講演を聞いたりして、調査した。 アメリカのテネシー大学のDr. Jeff Case教授の会社、SNMP リサーチ社が発信元のようだ。1993年の、この会社への訪問は忘れ難いものであった。

テネシー州の東の端、North Carolinaに近いKnoxvilleという田舎に出かけた。 なだらかで広大な麦畑(?) の農園に、隅にコンテナーハウスが一個あった。 近くにコンバイン風の大きなマシーンが立っている。これがSNMP リサーチ社だった。 講演会などでDr. Caseと知り合いになったソリトンの技術者が、1ヶ月ほど前から、既にここに滞在していた。

「向こうに見える家らしいものは?」「妹が住んでいる」
「この土地の広さは、どれくらいあるの?」「63エーカー」

15メートル以上もある川幅で、水が音もなく流れている川が敷地の境界だった。この川(テネシー川の上流)に向かってゴルフボールで打ちっぱなしをした。

「農園の中の暮らしも悪くないな、Smoky Mountainも近いし……………」と感じた。

「近くに、売り出し物件、無いですか?」
「明日、不動産屋を呼んであげよう」とDr.Case

翌日、不動産屋といわれる中年のおばさんが現れた。
「64エーカーより大きい物件だけを見せてくれ」とソリトン。
「Yes, Sure 」とおばさん。(64エーカー = 東京ドーム約6個分)

4つ程の物件を見せてもらった。 しかし、池のある現地で座って休んでいると、顔の周りに大きいアブが飛んで来た。 ふと、自分の田舎の、少年時代の夏のアブを思い出した。

------------------テネシーの地で不動産を買うことを止めた。

ソリトンは、OS/2やWindows対応SNMPマネージャを1993年に開発した。 ネットワークの管理系製品の一つとなり、これの発展がe-Careという商品になった。 なお、SNMP Research社は、今もKnoxvilleの地で、Mary奥さんと共に家族的なカルチャーで、 健全な、上手な経営をされているようである。

(2)Lotus Note(ノーツ)

ボストンの隣り、ケンブリッジに1982年設立されたLotusという会社は表計算ソフト、 Lotus 1-2-3でMicrosoftと互角に戦った。1989年、この会社から少し変わったソフトがリリースされた。 Lotus Note(ノーツ)である。グループウェアと呼ばれた。 「この文書型DBは使える!今の時代の情報共有にピッタリかも」とソリトンの一派は興奮した。 1992年にフロリダで開催されたNotes大会に参加、その後、ケンブリッジに技術者を滞在させ関連ソフトを開発させた。 1996年に「Notes用DB接続ソフト」、1997年に「User Admin Plus」をリリース、 特殊な開発言語を使っていたが客のDBシステム構築もいくつか手掛けた。 しかし、1995年、Lotus社はIBMに買収された。以降、IBMの事業として継続されることになった。 当社にとってグループウェアのブームは終わり、チームは解散、静かになった。

(3)ネットワークシステムの構築

Ciscoという会社が、John Chambersという人が社長、CEOになってから(1995年~)、企業戦略がガラリと変化。買収、買収で巨大化していった。その買収はすさまじい。インフラの慣性をビジネスの視点からハッキリ見ていたのだろうか。当社は、起業間も無いアメリカの会社を支援し、付き合った例はいくつかある。それらが突然Cisco ファミリーになる始末だった。当社のシリコンバレーの宿舎は、周りをCiscoビルで囲まれるようになった。ソリトンは、1987年から10年余り、3Com、 Network Express、Cabletron/Enterasys、Chipcomなど、何となく反Cisco?のネット企業と連携して、また、顧客であるNTTの方針に準じISDNを重視して、「システムの構築・インテグレーション」と「製品開発・製品売り」の二つを並行させ、ビジネスを進めた。

(4)ブロードバンドサービス

通信キャリアの技術に知識と熱意を持つ社内のグループが中心になって1999年頃からISPやブロードバンドサービスのためのシステム構築に参入した。北陸電力のHT Netや北海道電力のHOT NetのADSLサービスを支援した。また、2002年、秋田県のIXのシステム構築も手がけ、2003年2月からの運用開始を支援した。

(5)ビデオ・オン・デマンド(VOD)

2002年、賃貸マンション「レオパレス」のブロードバンド映像配信プロジェクトに参画、日本で初めての商用ビデオ・オン・デマンド(VOD)サービスを実現した。しかし、2005年以降、光回線の一般化と共にVODは常識的なものとなり、ソリトンにとって技術的挑戦の魅力は急に少ないものになっていった。